町のなかにあった建築が、何らかの理由で解体され消える。
これまで、その建築のそばを幾度となく歩いたにも関わらず、どんな建築がそこに存在したか思い出せないことがある。町の風景の細部にいたるまで、私たちは記憶することができないのだ。
私はこれまで、歴史的な理由で韓国や台湾、アメリカやブラジルに建てられた日本家屋を調査し、日本家屋を通してみえる「近代史の忘却」に関する美術作品を制作してきた。それは、東アジアやアメリカ、南米に、日本家屋が今でも存在している事実が土台になっている。
米子を初めて訪れた際、海外で調査したときに見つけた「古い日本家屋」と同じような建物が数多く残っている町並みに魅了された。毎日カメラを持って散策していると、ある日、一軒の古い日本家屋の解体現場に出くわした。聞くところによると、明治から大正の古い日本家屋だそうだ。この解体現場に出くわした時にこんなことを考えた。この古い町並みが少しずつ取り壊され、少しずつ新しいものに入れ替わったとしたならば、人々はいつ、どのようにして「古い町並み」を思い出すことができるのだろう。人と同じく建物にも寿命があり、知らぬ間に生まれては死んでいく。日本家屋の「生きた歴史」は人知れず忘れ去られてしまうのだろうか。
海外に建てられた日本家屋は、日本の移⺠政策や植⺠地政策などを示す「記憶の証人」である。
・1908年から、移⺠政策の地であるブラジルに渡った日本人のアイデンティティとして建設された日本家屋。・1945年以前に、朝鮮半島や台湾に日本人が建設した日本家屋。・1943年のアメリカで、日本の民家を破壊するための焼夷弾燃焼実験のための試験家屋として砂漠に建てられた日本家屋。
日本で生きる人々は、このような日本の近代が残した記憶を忘れつつある。
鳥取県も、アジアへの移住や民間人がブラジルへと旅立った歴史があり、アメリカ軍による焼夷弾空襲の被害を免れたことによって現在の町並みがある。しかし、米子の日本家屋も、いつの間にか消えて無くなり、人々の記憶からも消え去るかもしれない。
私たちは「記憶の忘却」には抗うことはできない。しかし、美術という手法を使い「記憶」の断片を拾い集めることができるのではないか。米子と海外に建てられた日本家屋は、思い出せないことを「思い出す」きっかけとして機能するかもしれない。米子という町を出発点として、「思い出せない」ことへの抵抗がさまざまな地域の歴史につながっていくことを、本展覧会で示したい。